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「6月になるとね、イサキの良い匂いがしてくるんだ。イサキの匂いに誘われてドアを開けるとおじさんが、きみのおじいさんが一杯やっててね。私はきみのお父さんを誘いに来たつもりなんだけど、おじさんに『いいから上がって一杯やってけよ』なんて言われると私も断れないから、そうですか、すいませんねぇ…って上がらせてもらって。だからよくおじいさんとは呑ませていただいたんですよ。そうするとおばさんがね、きみのおばあさんがいつも味噌汁を出してくれたんだけど、これが絶品だったの。具もほとんどなくて、油揚げくらいしか入ってないんだけど、すごくうまくて、かみさんにも作ってくれって頼んだくらい。私も作れますよ。それくらい美味しかったなぁ、あの味噌汁は」

「玄関に上がって左を見るとすぐ炬燵があって、正面におじさんが座っていてね。手前のテレビで相撲か野球を見ながら一杯やっていたね。あなたはタダ酒が飲めるって、しょっちゅう顔出してたよなぁ」

当時の情景がありありと浮かんだ。夕暮れの町、仕事場の木材、酒とイサキと味噌汁の香りが脳裏に漂っていた。30年か40年くらい前の話のはずだが、まるで自分が当時その場にいたかのような錯覚に陥った。友人の家に上がりこみ、友人ではなくその父と酒を飲み交わす酔狂な時代が確かにあったのだ。疑う余地のない貴重な証言に誘われて、夕焼け色の回想は私の瞼の裏でレースのカーテンのように静かに揺らめいていた。

祖母の骨を拾う列の最後尾に一人で立っていた彼の肩を叩き、父が味噌汁の話をすると、彼は父の肩に顔をうずめて、声を上げて泣いた。酒癖が悪いことでつとに有名な彼のことだから、いつものように酔っていたに違いない。それでも、母との別れに涙を流してくれる友人がいるということが、果たしてどれだけ幸せなことかと、私は想像せずにはいられないのだった。



仕事中に部長が差し入れを持ってきた。嫌な予感がした。社内バーで遅めのランチをしていたとき、「極薄のやつが手に入った。0.02ミリだ」とブルージーな報告を受けていた。お尻用のローションについては、やんわり断っておいた。ぼくは興奮していた。後で酒の席で袖の下から差し出されるものだとばかり思っていた。

3枚つづりのそれは、さすが0.02ミリだけあって3つ折りにしても極薄で片手で握りこめるサイズだった。隣の席には直属の上司がいた。部長は直属の上司ではないが偉い人で、ぼくをアルバイトから社員にしてくれた恩人でありかつての上司であり酒飲み仲間であり、現在は性行為研究会の気の合う上司と部下であった。

袋の中からのぞかせたローションはすぐに隠させた。女性だっているのだ。代わりにぼくは周囲へのアピールのつもりでわめいた。「いまじゃなくていいじゃないですかー!」ふらふらと営業部に現れて純和製極薄のスキンとローションを差し入れるこの部長にはブルースがある。横浜、伊勢佐木町、エディ藩。天使はブルースを唄うのだ。部長はきっと若いころから20代の若い女を抱き続けてきたに違いない。

「すごいクスリがあるけどいる?ホントすごいよ、収まらなくなっちゃうの」

ついていきます。



「たった一度きりで、壊していい関係じゃないでしょう?」

明け方というには遅すぎた。もうすでにしっかり朝だった。彼女は壁の方を向いて浅く寝入っていた。僕はベッドに腰を下ろして、彼女が吸い散らかしたタバコを見つめてから、彼女の背中を抱きしめた。

何カップ?どうしてそういうことを聞くの?ぼくたちは寝言で会話をしていた。あるいは夢の中で談笑していた。健康診断の結果が出たんでしょ?健康診断でFカップとか言われないから。

しまった、という顔をして、彼女は天井を見上げた。ぼくは吉祥寺の喫茶店を思い出していた。あの時もぼくたちは寝不足だった。夢のような時間だった。いまは正真正銘、夢の中にいた。

そんなにアタシの裸が見たいか。見たいに決まってるだろう。悪いとは思ってるよ、一度はあんなこと言ってくれた相手にさ。ぼくは少し安心した。あの日の出来事が彼女の記憶に残っていたことに。

ぼくは彼女の体に腕を回して唇を近づけた。ダメ。何で?彼女としなさい。してるよ。最低だね。最悪だよね。最低で最悪なことに、しかしそれが本音だった。わからない、そんなこと、わからないよ。いくら抱き寄せても、もう彼女は決してこちらを向かなかった。

彼女の髪からメスの匂いがした。抗いようのない大自然の摂理にぼくは溺れていた。藁をもつかむ思いで、ぼくは彼女のシャツの中に手を入れた。いいの?それはぼくの台詞ではなかった。たった一度きりで、壊していい関係じゃないでしょう?彼女の言葉は、いつもぼくの心臓を鐘のように突いてくる。頭の中に響いて、響いて、響き続ける。

ぼくたちはコンビニへ女性もののシャンプーとリンスを買いに行った。彼女はアイスコーヒーを買って、飲む?と差し出してきた。ストローに口をつけながら、ああ、と僕は思った。この気だるい雰囲気が、ぼくは。

一年前は黄色だったネイルは赤になっていた。ぼくたちは、今度は一緒に駅へと向かった。秋にできた彼氏と最近ダメになった、ろくなことがなかった、そんなことを話した。一緒に電車に乗って、ぼくは恋人との待ち合わせに向かうため、途中の駅で降りた。ありがとう。それはどちらの台詞だったか、やはり思い出せないのだった。



知人夫妻がフェイスブックでペットのネコをベビーカーに乗せて、まるでわが子のようにあちこち連れまわしている写真をアップしている。交友関係が広いらしく行く先々で可愛がられているようで、1つの記事にいいねが50くらいついている。いくらかわいいとはいえ、よくそこまで溺愛できるなぁと冷めた目で見ていたのですが、先日唐突に理解すると同時に、私の視線も生温いものになりました。ああ、この夫婦はきっと子供がつくれないんだ、このネコが彼らの子供なんだ、と。